ゲストライターのKNNポール神田です。
川井さんが、Facebookで、『カメラを止めるな!』に続け!国産インディーズ映画の勢いが止まらない
について言及されているのを見て思いついた…
ヒマスタはデジタル時代のエジソン「ブラック・マリア」スタジオだ!

いや、いや、『ヒマスタ』こそ、軽く1時間超えのノンカットスタジオだ。しかもスイッチング付きのスタジオである。カメラの存在は限りなくなくなり、人との対話がそのままコンテンツとなる。文脈の中で人間関係が明確になる。事前情報がない状態でみている『ヒマスタ』は映画とよく似ている。ただ、文脈は映画というよりもライブ・ドキュメンタリーだ。
いや、『カメラを止めるな!』文脈で考えると(…といってもまだ見ていないが…)、プロットを作って、起承転結を作れば十分、フィクションで面白い対談番組はできると思う。エイプリールフールネタで考えてみたい。
映画スタジオの起源は、トーマス・アルバ・エジソンの『ブラック・マリア』である。ニュージャージーのウエストオレンジ研究所にレプリカが展示されている。ちょうど『ヒマスタ』くらいのサイズ感だ。
のぞきからくりで見せるときにどう見せれば面白いのかを考えて制作されていたのだ。
…とは、いっても当時は、『写真』でさえまだ珍しい時代に、覗いてみると、まるで小人が動いているので、さぞ驚いたことだろうと思う。
ブラックマリアは、1891年に発明された『キネトスコープ』用の映像制作スタジオである。
鉄道の円形レールに載せられたスタジオは、太陽光が常に一定に入るように、太陽光にあわせてクルクルと回転できるスタジオだった。まるで機関車の往復の利用される回転台にスタジオが作られている。
1892年には、イーストマン・コダックと共同開発でエジソンは、『35mmフィルム』のスプロケットを発明している。エジソンの指の間を、イーストマンが計測して35mmになったと言われている。
1894年の映画 ブラック・マリアで撮影されている
エジソンの時代の最初の映画は、のぞきからくりでコインを投入し、のぞきこんでコンテンツを楽しむものであった。だから世界の珍しいものを見ることができる動画センターのようなものだった。
マンガ喫茶でVR機器を借りるのに近いものがある。
キネトスコープパーラーはニューヨークで2年大ヒット。
提供するのは量産できる珍しい動画。
映像というメディアはとても珍しい。しかし、視聴者の要求はだんだんと高くなっていく。
VR映像とまったく一緒だ。
動画メディアが何もない頃、重たい機材はスタジオに設置され、いつでも好条件で撮影できるスタジオで撮影されることとなった。
マルチカメラで映像をつなげるなんて『文法』も存在しなかった。
1895年12月28日にリュミエール兄弟が、パリのグランカフェで興行料を取り投影したスクリーンで見せたのが映画の誕生日とされる。キネトスコープにインスパイアされてからたかだか4年である。
撮影だけでなく、上映までできる撮影と再生の機械であった。また、リュミエール協会を作り、世界にカメラマンを派遣した。これにより世界で最古の映像が残る。
映画の誕生日から2年後、1897年エジソンは、『バイタスコープ Vitascope』を販売し、リュミエール兄弟のスクリーン投影の上映型の映画ビジネスに参入する。
1903年エジソンスタジオの「大列車強盗(The Great Train Robbery)」は映画の古典的教科書
映画産業が誕生し、キネトスコープの発明から17年後、エジソンは、1908年、映画産業のパテント会社MPPC(Motion Picture Patents Company)を設立する。このパテント料を不払いにしたユダヤ系移民が西海岸にまで逃げ、ハリウッドあたりに効率のよいスタジオを作った。1915年、反トラスト法によってMPCCが違法となるとハリウッドは、1920年代から映画産業のメジャーとなっていく。
エジソンがキネトスコープ発明からの映像ビジネスモデルはたったの24年間であった。
しかし、最初に発明されたキネトスコープから、24年経過すると、ハリウッドの大スタジオの黄金期を迎える。
『ヒマスタ』の24年後、いったいどんなライブメディアが誕生しているのだろうか?
2042年、日本は64歳以上が4割になっているという…。日本ではなく世界で勝負しているはずだ!
川井さんが、Facebookで、
『カメラを止めるな!』に続け!国産インディーズ映画の勢いが止まらない
について言及されているのを見て思いついた…見てみたい!→簡単に申すとこの作品、79分という上映時間の間、若い男女の痴話喧嘩のみを延々と描いているのである!
ヒマスタはデジタル時代のエジソン「ブラック・マリア」スタジオだ!

いや、いや、『ヒマスタ』こそ、軽く1時間超えのノンカットスタジオだ。しかもスイッチング付きのスタジオである。カメラの存在は限りなくなくなり、人との対話がそのままコンテンツとなる。文脈の中で人間関係が明確になる。事前情報がない状態でみている『ヒマスタ』は映画とよく似ている。ただ、文脈は映画というよりもライブ・ドキュメンタリーだ。
いや、『カメラを止めるな!』文脈で考えると(…といってもまだ見ていないが…)、プロットを作って、起承転結を作れば十分、フィクションで面白い対談番組はできると思う。エイプリールフールネタで考えてみたい。
映画スタジオの起源は、トーマス・アルバ・エジソンの『ブラック・マリア』である。ニュージャージーのウエストオレンジ研究所にレプリカが展示されている。ちょうど『ヒマスタ』くらいのサイズ感だ。
のぞきからくりで見せるときにどう見せれば面白いのかを考えて制作されていたのだ。
…とは、いっても当時は、『写真』でさえまだ珍しい時代に、覗いてみると、まるで小人が動いているので、さぞ驚いたことだろうと思う。
ブラックマリアは、1891年に発明された『キネトスコープ』用の映像制作スタジオである。
鉄道の円形レールに載せられたスタジオは、太陽光が常に一定に入るように、太陽光にあわせてクルクルと回転できるスタジオだった。まるで機関車の往復の利用される回転台にスタジオが作られている。
1892年には、イーストマン・コダックと共同開発でエジソンは、『35mmフィルム』のスプロケットを発明している。エジソンの指の間を、イーストマンが計測して35mmになったと言われている。
1894年の映画 ブラック・マリアで撮影されている
エジソンの時代の最初の映画は、のぞきからくりでコインを投入し、のぞきこんでコンテンツを楽しむものであった。だから世界の珍しいものを見ることができる動画センターのようなものだった。
マンガ喫茶でVR機器を借りるのに近いものがある。
キネトスコープパーラーはニューヨークで2年大ヒット。
提供するのは量産できる珍しい動画。
映像というメディアはとても珍しい。しかし、視聴者の要求はだんだんと高くなっていく。
VR映像とまったく一緒だ。
動画メディアが何もない頃、重たい機材はスタジオに設置され、いつでも好条件で撮影できるスタジオで撮影されることとなった。
マルチカメラで映像をつなげるなんて『文法』も存在しなかった。
1895年12月28日にリュミエール兄弟が、パリのグランカフェで興行料を取り投影したスクリーンで見せたのが映画の誕生日とされる。キネトスコープにインスパイアされてからたかだか4年である。
撮影だけでなく、上映までできる撮影と再生の機械であった。また、リュミエール協会を作り、世界にカメラマンを派遣した。これにより世界で最古の映像が残る。
映画の誕生日から2年後、1897年エジソンは、『バイタスコープ Vitascope』を販売し、リュミエール兄弟のスクリーン投影の上映型の映画ビジネスに参入する。
1903年エジソンスタジオの「大列車強盗(The Great Train Robbery)」は映画の古典的教科書
映画産業が誕生し、キネトスコープの発明から17年後、エジソンは、1908年、映画産業のパテント会社MPPC(Motion Picture Patents Company)を設立する。このパテント料を不払いにしたユダヤ系移民が西海岸にまで逃げ、ハリウッドあたりに効率のよいスタジオを作った。1915年、反トラスト法によってMPCCが違法となるとハリウッドは、1920年代から映画産業のメジャーとなっていく。
エジソンがキネトスコープ発明からの映像ビジネスモデルはたったの24年間であった。
しかし、最初に発明されたキネトスコープから、24年経過すると、ハリウッドの大スタジオの黄金期を迎える。
『ヒマスタ』の24年後、いったいどんなライブメディアが誕生しているのだろうか?
2042年、日本は64歳以上が4割になっているという…。日本ではなく世界で勝負しているはずだ!